金春流肥後中村家13代 中村勝さんにインタビュー

室町時代に確立したとされる「能楽」。その祖とされる観阿弥、世阿弥の時代から存在を認められ、活躍を続けた金春(こんぱる)家は、その伝統を受け継いだ「金春八郎」が豊臣秀吉に大きく用いられ、能楽界のトップの座に就く。秀吉亡き後、時の権力者が徳川家康に移ろうとする中、金春八郎から一子相伝で金春流の能楽を受け継いだのが、中村勝三郎から続く、「中村家」である。加藤清正とともに熊本に入り、その後も細川家とともに熊本の能文化を継承してきた金春流肥後中村家13代の中村勝氏に、熊本の能楽について話を伺った。

400年の伝統を持つ熊本の無形文化財

――「能楽」や、その中の「金春流」、について教えて下さい。

私は75歳をもって、この河原町に和菓子屋、最中(もなか)の専門店を始めました。それは、私の家が400年の熊本の能楽の歴史を背負っているという責任感があったからです。この無形文化を熊本では400年やってきたわけですから、あと400年ぐらいを考えながら仕事をやっていければと思っています。

私の家は、加藤清正公ゆかりの「金春流」という能の流儀になります。ほかに、観世(かんぜ)、宝生(ほうしょう)、金剛(こんごう)、喜多(きた)、というシテ方が5流あります。能楽には、狂言やワキ方や囃子(ハヤシ)方があり、それぞれの流儀があります。ただし、能というのは「シテ方」という主役を演ずる家がしっかりしいてないと成り立ちません。能は、シテ方がほかの職域の人たちを呼びかけて集まるという芸術なので、シテ方のない町からは能は消えるといっても過言ではないのです。

私たちの先祖である中村家は、もとは豊臣秀吉の小姓でした。秀吉は晩年に能に狂うほど大変好きになり、肥前の名護屋で滞陣しているときに能を習い、徳川家康や前田利家などと能を催しました。その時に目に止まったのが、当時、第一人者で金春八郎という人です。歴史も古く、芸も一番ということで、秀吉の相談や稽古にあたっていました。

能の歴史では、観阿弥、世阿弥を支援した足利義満が600年前の庇護(ひご)者であり、豊臣秀吉が400年前の庇護者になって、地方にあった雑多な能の集団を4座にまとめたわけです。そして、そのトップに金春八郎を置きました。

その金春八郎のもとに、自分の小姓である中村勝三郎を弟子として入れ、豊臣家が後見するという形で、能を習得させました。それが、金春流中村家のスタートになります。

 ――熊本の能楽について教えて下さい。

ただ、その次の、徳川時代になると、徳川家康が若いときから観世(かんぜ)太夫(だゆう)に習ったこともあり、観世太夫がトップに就きます。それゆえ、金春流が一番輝いたのは秀吉の時代ですが、ただ、金春八郎は芸がよかったので、観世太夫に劣らぬぐらいに家康にも引き立てられました。

でも、2代将軍の徳川秀忠のときは、秀吉時代の第一人者が隠居したり、亡くなったりしたため、金剛流から出てきた喜多七太夫という人が、徳川秀忠にお杯をいただき、一流を樹立しました。したがって、能楽は、江戸初期から4座1流ということになったのです。古いのは「座」、江戸時代以降に出てきたのが「流」ということになります。

そのように、権力の中心が、豊臣家から徳川家に変わると、秀吉は亡くなった後ですが、豊臣秀頼が大阪城に残っていたので、金春八郎は一子相伝の印可状と能演出の秘伝書を、中村勝三郎に書き起こしてくれたわけです。幸いそれは、今日も熊本市有形文化財として残っています。

ただ、その頃から秀吉がいなくなって政治的には大阪は危ないということで、私どもの先祖は、加藤清正にかくまわれるような形で肥後に入ったのです。普通の役者ではなく、「武家役者」として、加藤家に500石で仕えることになりました。

そうして、熊本の能楽は、加藤清正公の時代に大きく花開くわけです。今日でも有力大名の血判起請文が15、6通残っています。その後、加藤家が断絶しましたが、細川忠利公はすでに中村勝三郎の弟子であり、小倉に呼んで能をやらせたり、江戸で交流していました。細川家が肥後の領主になっても師匠の扱いを受け、1000石を給せられました。また、細川家というのは、文化度の高い大名ですので、いつでもレベルの高いものを要求されましたし、それに呼応する形で、熊本の能は江戸時代を通じて江戸に劣らぬ高いレベルを維持し続けたのです。

 ――熊本の能楽の現状や課題、今後の取り組みについて教えて下さい。

今日の能楽界を見てもわかりますが、熊本から出た能役者たちは、東京に出て名人大家になっています。熊本人が持っている能への姿勢の高さがわかると思います。

一方、地元熊本の能楽への取り組みには、まだまだ努力すべき点が多くあります。福岡県は県立の能楽堂を持っていて、日々、県民教育をしています。大濠公園の中に能楽堂があるということは、熊本で言えばお城の中にあるのと同じようなものです。大分市も平和公園に立派な市立の能楽堂を持っています。鹿児島県は、ふれあい館という大きなビルの中に移動式の能楽堂があります。普段は会議場になっていますが、奥から出してくるときれいな能舞台になります。

加藤清正公の時代の無形文化で残っているものは、今はこの能しかないのです。熊本の政治家や財界人は熊本の歴史を深く知ってほしいと思います。

私の家について話すと、私の息子はもともと物理を専攻していたのですが、熊本と中村家の伝統を理解し、東京芸大に入り直しました。やはり、「能楽」というぐらいなので、面をかぶって舞台に出ているだけでは半分以下です。能楽の「楽」の部分がわからないといけません。芸大では笛方で入学し、大鼓、小鼓、太鼓など、全部基礎を学びました。その基礎の上に、謡いと舞いが入ってくるのです。そうして、数多くの古典能を演じながら、一人前の能楽師になっていくわけです。

今はその息子も「金春流能楽師」となって熊本に帰って3回の鑑賞能を開きましたが、ただ今、胸髄症のため、しばらく舞台に出るのが難しい状況になっています。私としては、孫にも能楽師としての伝統を引き継いでほしいと思い、それを支えるため、この最中屋を開店したわけです。

さらに、熊本の人たちに能を知ってもらうきっかけとして、夏目漱石の小説「草枕」の群読能劇を企画しました。漱石は熊本で謡いを習いはじめ、没する年まで友人や弟子たちと謡いを楽しんでいます。漱石は草枕の小説の冒頭で、明確にこの小説は「能の仕立てで書く」と宣言しています。百年もの間、この小説が「能」なのだと気づいた人がいませんでした。それゆえ、熊本県民、市民にぜひ知ってほしいと思い、12月7、8日に草枕の群読能劇を河原町のギャラリーアドゥ(TEL096-352-1930)で行います。来年9月27日には、森都心プラザで行うことも予定しています。

 ――若者や学生に一言お願いします。

お若い方々は熊本の文化を「一人一芸」、身につけてほしいと思います。教養として熊本の文化を身につけると、たとえば会長や社長など、トップの方々の目に止まります。

ちなみに、阿蘇の神主さんが登場し、熊本のご当地能とも言える「高砂」がありますが、本県では今日、結婚式などで「高砂や」を聞くこともありません。また、同じ高砂の一節、「四海波」は、室町時代から幕末までの日本の国歌と言えるものでした。それを見ても、どれほど能というものが、日本の文化に深く関わってきたかがわかると思います。

金春流の能に限らず、肥後の茶道「古流」や肥後の華道「肥後宏道流」など、郷土固有の文化を知り、愛し、さらなるご支援をお願いしたく存じます。

 ――どうも有難うございました。


2013年1月、熊本県立劇場での金春流の能舞台

【財(たから)なキーワード】
「漱石は草枕の小説の冒頭で、明確にこの小説は「能の仕立てで書く」と宣言しています。しかし、百年もの間、この小説が「能」なのだと気づいた人がいませんでした。」

・プロフィール
1938年生まれ。国際基督教大卒。合同酒精㈱勤務などを経て、熊本市新町1丁目に、和菓子・干菓子の店「松巌亭」を開く。10年の中断を経て、熊本市河原町に、2012年11月、和菓子・最中の専門店「高砂や」を開店。金春流肥後中村家13代目。14代目である息子の中村一路は、九州唯一人の肥後金春流能楽師。肥後金春流保存会の副理事長を務める。

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