柔道を「国際化」した教育者 嘉納治五郎

“日本人の誇りを世界へ”

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今年8月に開催された「ソチオリンピック」を終え、4年後の2020年には、1964年以降、2回目の開催となる「東京オリンピック」も開催される。今回は、第五高等学校の第3代校長として基盤を築いた一方で、柔道を世界的なスポーツにした“柔道の父”であり、同時に、東洋人初のIOC委員として、幻の大会となった1940年の東京オリンピック誘致にも尽力した「嘉納治五郎」を取り上げる。

熊本との深い関わり
第五高等学校の第3代校長を務め、ラフカディオ・ハーンら教師からも慕われた「嘉納治五郎」(=敬称略、以下、「治五郎」)。熊本大にも熊本にも大きな足跡を残した治五郎は、その死後、あらためてその功績が評価され、1999年(平成11年)には「熊本県近代文化功労者」として顕彰を受けている。
熊本出身者ではないイメージの強い治五郎だが、実際には1860年(安政7年)、摂津国(現在の神戸市)に生まれ、11才の時に父・次郎作と上京して以降は、東京での生活が長かった。
熊本との大きな接点は、1891年(明治24年)に結婚した治五郎の妻・須磨子が熊本出身者だったことである。須磨子の父は、漢学者で外交官などとしても活躍した「竹添進一郎」で、肥後天草郡上村(現・大矢野町)の出身者だ。15歳の時に熊本に出て藩儒木下い村(いそん)のもとに入塾している。
同門には教育勅語の起草でも知られる「井上毅」がおり、終生水魚の交を結んだという。また、藩命により江戸・奥羽を視察し、この時に「勝海舟」と知り合っている。1875年(明治8年)に上京し、大蔵省に出仕。その後は勝海舟の推薦で森有礼に従い中国に渡る。その後、帰国して記した「棧雲峡雨日記並詩章」は多くの人に愛読され、その名を一躍高めることになった。現在、大矢野町の町立体育館前には竹添進一郎を顕彰する碑が建っている。

熊本の柔道の“祖”
治五郎は、熊本には1891年(明治26年)からの一年半、第五高等学校の校長として赴任し、「教育者」として五高の基礎を固める役割を果たした。当時、英語教師であった「ラフカディオ・ハーン」が治五郎のことを大いに尊敬していたことは有名だ。また、その熊本赴任時代に、講道館の分場として「端邦館」を熊本市内の坪井につくり、熊本の柔道文化のまさに“足場”を築いた。
後に、熊本大工学部の前身にあたる「熊本高等工業学校」の卒業生であり、多くの学校を抱える東海大グループの創始者「松前重信」氏も、治五郎が熊本で築いた柔道文化に感化を受けた一人にあたる。同氏は国際柔道連盟会長などを務め、柔道などの武道を通した人格育成に力を注ぎ、ロサンゼルスオリンピック金メダリストの「山下康裕」氏をはじめ、日本のトップ柔道家を育成してきた。それもまさに治五郎から受け継がれた柔道のスピリットが、松前氏を通し、まさに日本で最も大きい学校法人グループに受け継がれているからにほかならない。

基礎は『柔術』から
東京帝国大を卒業し、学業でも優秀な成績を収めた治五郎だったが、もとは体が弱く、そのため自分の体を少しでも強くしたいという思いから、小さい者が大きい者を倒すことができる「柔術」に心を傾けるようになったという。
当時は文明開化の時であり、西洋文化に傾倒していた日本で「柔術」は全く省みられず、師匠を探すのにも苦労し、ようやく柳生心眼流の大島一学に短期間入門した。その後、天神真楊流柔術の福田八之助に念願の柔術入門を果たす。この時期の治五郎を記録したものには、「先生(福田)から投げられた際に、『これはどうやって投げるのですか』と聞いたところ、先生は『数さえこなせば解るようになる』と答えられた」と書かれてある。福田が52歳で他界した後は天神真楊流柔術の家元である磯正智に学んでいる。

「柔道」として体系化
東京大学文学部哲学政治学理財学科卒業。磯の死後、起倒流の飯久保恒年に学ぶようになる。柔術二流派の乱捕技術を取捨選択し、崩しの理論などを確立し、いよいよ独自の「柔道」を体系化していく。
また、1882年(明治15年)には、下谷北稲荷町16(現・台東区東上野5丁目)にある永昌寺の12畳の居間と7畳の書院を道場とし、囲碁や将棋から「段位制」を取り入れ、「講道館」を設立する。

武道=教育→世界
治五郎のすばらしい点は、「武道」と「教育」を別のもと捕らえず、本質的には武道も教育の一部と考えていた点だろう。また、武道を中心に置きながらも、スポーツ全体を人格育成の重要や役割を担うと考えていた点が、「オリンピック憲章」にある価値観、つまり『オリンピズムは肉体と意志と精神のすべての資質を高め、 バランスよく結合させる生き方の哲学である。 オリンピズムはスポーツを文化、 教育と融合させ、 生き方の創造を探求するものである。 その生き方は努力する喜び、良い模範であることの教育的価値、社会的な責任、さらに普遍的で根本的な倫理規範の尊重を基盤とする。』と一致していた。
それゆえ、日本が古来から受け継いできたスポーツとも言える武道、中でも、その結晶として治五郎自身が確立した「柔道」を世界が認めるスポーツとして「オリンピック認定種目」にしてくことは、武道家であり、教育者であった治五郎が最も重要視していたことだった。

東洋初のIOC委員
1909年(明治42年)、東洋人初のIOC委員となった治五郎の働きかけにより、「柔道」は、1934年(昭和九年)のロサンゼルスオリンピックで公開競技となった。(正式競技となったのは、1964年の東京オリンピックから)
現在では、世界中に普及し、国際柔道連盟の加盟国・地域も199カ国ある(2007年9月現在)。日本以外では、ヨーロッパやロシア、ブラジルなどで人気が高く、幼少期の数など両国の登録対象年齢が異なり、単純に比較することはできないが、フランスの登録競技人口は50万人を突破し、全日本柔道連盟への登録競技人口20万人を大きく上回っている。柔道が国際的なスポーツとして普及しながらも、その核心部分である「人格育成」の精神は息づいており、そのため「礼節」が重んじられている。
治五郎は、1938年(昭和13年)のカイロ(エジプト)でのIOC総会からの帰国途上の5月4日(横浜到着の2日前)、氷川丸の船内で肺炎により死去(遺体は氷詰にして持ち帰られた)。77歳没。生前の功績に対し勲一等旭日大綬章を賜られている。

柔道の誇りを世界へ
今なお、オリンピックの柔道競技、世界柔道選手権大会に出場する柔道日本代表選手団は、大会前に必勝祈願として、治五郎の墓参りをすることが恒例となっている。
世界に誇ることができる、日本人の精神が凝縮した国際的スポーツ「柔道(JYUDO)」。治五郎が確立した原点から離れない限り、柔道は、さらに日本人の精神を育成する「教育」に用いられ、同時に、その精神は引き続き国境を越え、世界中の人たちの精神にも影響を与え続けていくことは間違いない。

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治五郎先生の記念碑(熊本大、※写真=上)

熊本大・柔道部らが練習する武道場(体育館)の入口付近にある治五郎の記念碑

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世界に広まる「JUDO」(※写真=下)

柔道の組手を行う治五郎。生涯にわたり、治五郎は日本の文化・教育が凝縮した「柔道(JUDO)」を世界に広めていく

 

<嘉納治五郎・年譜>

1860年 摂津国御影村(現・兵庫県神戸市東灘区御影町)で嘉納家の三男として生まれる。
1870年(明治3年) 明治政府に招聘された父に付いて上京
1877年(明治10年)に東京大に入学。その後、「柔術」を学び始める
1881年(明治14年) 東京大文学部哲学政治学理財学科卒業。柔術の二つの流派の乱捕技術を取捨選択し、独自の「柔道」を体系化する
1891年~93年 第五高等学校の第3代校長として熊本に赴任。「講道館」の分場を熊本市坪井につくる
1909年(明治42年) 東洋初のIOC(国際オリンピック委員会)委員となる
1936年(昭和11年) IOC総会で、1940年(昭和15年)の東京オリンピック(後に戦争の激化により返上)招致に成功
1938年(昭和13年) カイロ(エジプト)でのIOC総会からの帰国途上、船内で肺炎により死去。77歳没