江戸中期の“3名君”の1人 熊本藩主・細川重賢

“『人』を信じ、用い、つくる”

%e7%b4%b0%e5%b7%9d%e9%87%8d%e8%b3%a2%e3%83%bb%e7%94%bb%e5%83%8f%e3%83%bb%e3%82%b5%e3%82%a4%e3%83%88%e7%94%a8江戸時代265年という長い時代にわたり、熊本では加藤清正ら加藤家2代の後、細川家が12代にわたり熊本藩を治めた。その歴代の藩主の中でも、財政危機に陥っていた藩を再建したのが、熊本藩細川家第6代の「細川重賢(しげかた)」である。さらには、藩の危機を救うのは『人』だとしながら、当時の日本の藩校としては例のない、身分を問わず熊本藩の藩校「時習館(じしゅうかん)」で学ぶことができるようにした。今回は、『宝暦の改革』を成し遂げた名君として語り継がれる「細川重賢」を取り上げる。

改革に至る背景
歴史的に語り継がれる細川重賢の業績を見ていくためには、まずは重賢による『宝暦の改革』に至るまでの、熊本藩の状況について見ていく必要がある。
加藤清正が行った農地改革により、当時の熊本藩における米中心の農業の生産性は高く、その土台で新たな藩主となった細川家は比較的順調な滑り出しを行った。それゆえ、細川ガラシャの子としても知られる初代熊本藩主「細川忠利」の代にはそれほど大きなトラブルはなかったものの、忠利の子である熊本藩細川家第2代「細川光尚」の早世から次第に歯車が狂い始める。

深刻化する財政
光尚自身は、島原の乱でも武功を挙げ、内政においても家老制度や役人などの官制改革も積極的に行ない、藩政の基礎を固めたとされる。しかし、31歳という若さで他界したため、その跡を、当時七歳であった光尚の子「細川綱利」が継ぐことになる。その後は綱利が60年以上にわたり、熊本藩細川家第三代として熊本を統治していくことになる。
実際に、父・光尚が行う政治を目の前で見てきていない綱利にとって、熊本54万石を納めていくことが容易でなかったことは想像に難くない。最初は側近たちが実務を行いながら綱利を教育し、成長していくにつれ、次第に綱利が直接判断を下すようになっていったようだ。
綱利は、興味や感心を持ったものには、お金を惜しまなかったと言われ、具体的な例としては、相撲道の吉田司家を熊本に呼んだり、赤穂浪士の大石良雄らの預かりを申し出、17人の浪士たちを厚遇したことでも知られる。そのように、自分が好感を持ったものには、金銭感覚がなくなる面があったことに加え、内政を重視しない傾向は次第に財政の悪化という形で現れてくるようになる。
加えて、綱利の死後、跡を継いだ熊本藩細川家第4代「細川宣紀」の代には、干ばつや飢饉、虫害、イナゴの大発生、洪水、疫病、台風と天災が立て続きに起こり、多難を極めた。
これらだけ見ても、熊本藩の悲惨な状況を垣間見ることができるが、更なる不幸が起こることによって、名君・重賢が誕生する土台が整うことになる。

そのまま質素倹約へ
それが、兄であった熊本藩細川家第5代「細川宗孝」が、月例拝賀式で登城した際、人違いで旗本寄合席7,000石の板倉勝該に突然背後から斬りつけられ命を失うという事件が起きたことである。これは、安中藩主・板倉勝清が自らを廃するのでないかと勝手に思い込んだ勝該が、これを逆恨みして行ったものだったが、細川家の「九曜」紋が板倉家の「九曜巴」紋とよく似ていたことから、宗孝を勝清と勘違いしたのである。
歴史が呼び寄せたかのように、この熊本藩の不幸な事件が、名君「細川重賢」の誕生をつくり出すことになる。
財政がひっ迫している熊本藩、さらにはその熊本藩の江戸藩邸で育った重賢は、すでに質素な生活が染みついており、藩主として熊本に帰郷してからも、自ら質素倹約に努めることには何のためらいもなかった。また、もともと藩主になることが期待されていた立場ではなかったため、藩主となったときの見返りを期待し、過剰にまわりからちやほやされることもなかった。それゆえ、藩主になった後も藩主の特権に執着することなく、質素倹約を貫き続けている。ある面、重賢は、そうした自身が通過した境遇を非常時の改革に大いに活用したということだろう。

直言型の家臣を重用
そして、改革のまず第一歩目として、自分の下に、自分に対し率直に進言する行動力のある家臣を置いたということだ。その代表的な人物として堀 を立てた。堀はもともと中級武士で、藩内でも頑固者で融通が利かないことで知られていた。
しかし、重賢は、その堀を「話の筋を通す」「納得したことに対しては最後まで妥協しない」人物と評価。改革を成し遂げるために最適の者だと評価し、自身の直下に置き続けた。
その上で、堀をはじめ、改革に抜擢した家臣たちに権限を委譲し、重賢と方向性さえ一致していれば果敢に改革を遂行できる体制を敷いた。

産業振興・司法改革
倹約生活が染みついた重賢が先頭に立ち、民衆にも訴えながら共に倹約生活を進めていったのと合わせ、天候などの自然現象などに影響受けやすい「米」に代わる産業の柱をつくる「産業振興」を進めた。中心的な政策として、ろうそくをつくるために必要な「ハゼ蝋」を藩の専売制にし、藩の貯蓄を増やすというものだった。まずは、藩がハゼ蝋を買い取ることによって、農家の収入も安定することにつながっている。
また重賢は、一見すると、目立たないように思える「司法改革」にも力を入れた。民衆があってこそ、藩が存続することができると考えていた重賢は、熊本藩での刑罰が重すぎることによって、藩を捨てる者がいることは重大な問題だと考えた。そのため、刑を軽くすることによって、恐怖心ゆえに藩を捨てる者が出ないようにし、「人口流出」を最小限に抑えるための努力を行っている。

教育こそ“藩の未来”
そして、重賢が最も重要視した改革が、「教育改革」である。改革を継続して行っていくためには、やはり『人』が重要になるということを強く認識していた重賢は、改革の柱に「学校建設」を置いた。それが、藩校「時習館(じしゅうかん)」と医学校「再春館(さいしゅんかん)」である。
時習館は、江戸でもその名が知られていた漢学者「秋山玉山(ぎょくざん)」を初代教授に迎え、多くの名のある指導者のもとで、文武両道の教育を行った。学科は漢字、習字、修学、音楽、馬術、居合、長刀、遊泳など実に多彩で、教科書には四書五経、とくに論語を当時の大切な教科書として用いた。
医学校「再春館」は、設立当初、その人材育成について書いた「肥後医育」で、「国中の民をして、若死、疫病死の憂いをなからしむ。その恵みや厚し」と、熊本藩の一人ひとりが健康に長生きすることができるようになる恩恵は、藩にとって計り知れないと述べている。
ちなみに、重賢は医学校に対する構想も早くから持ち合わせていたことも伝えられており、参勤交代の移動の時間や労力さえ無駄にしないよう、移動の途中、薬草になる可能性がないか、植物を採取させ、持ち帰りながら薬草の研究に努めていたことが知られている。また、そうした重賢の研究や努力は、再春館の「蕃滋園(ばんじえん)」という薬草園に集約され、明治維新まで存続。その後、蕃滋園は個人の所有を経て、第五高等学校に寄贈され、その研究や精神は現在の熊本大薬学部に受け継がれている。

今こそ『重賢』を知る
こうした重賢による「宝暦の改革」は、秋山玉山の友人・平井定洲を通じ、米沢藩の上杉鷹山(ようざん)に細かく伝えられ、鷹山による米沢藩の改革につながっていく。
今もさまざまな面で閉塞感が漂う日本。そえゆえに、上杉鷹山らとともに“江戸中期の三名君”の一人に挙げられる「細川重賢」の業績や日本中に与えた影響について、多くの日本人はもっと知っていく必要があるだろう。

5%e9%9d%a2%e7%94%a8%e5%86%99%e7%9c%9f%e3%83%bb%e5%8c%97%e5%b2%a1%e8%87%aa%e7%84%b6%e5%85%ac%e5%9c%92

写真㊤妙解寺跡(北岡自然公園内)
細川重賢をはじめ、歴代の熊本藩主を務めた細川家の墓がある「妙解寺跡」(※写真は熊本地震以前のもの)
写真㊦熊本藩校「時習館」跡
時習館は重賢の教育改革の中心を担い、さまざまな人財を輩出した。

<細川重賢・年譜>
1721年(享保5年) 第4代熊本藩主・細川宣紀の五男として生まれる。
1747年(延享4年) 兄である第5代熊本藩主・細川宗孝が江戸城での事件で死去し、第6代熊本藩主となる。
1752年(宝暦2年) 堀平太左衛門を筆頭奉行に任命。加島屋からの資金調達に成功
1754年(宝暦4年) 藩校「時習館」を設立。熊本藩の刑法典「御刑法草書」を編纂
1756年(宝暦6年) 藩校(医学校)「再春館」を設立
1782年(天明2年) 天明の大飢饉(~88年)が始まる。穀物の備蓄や重賢の資財も投じ、救済にあたる
1785年(天明5年) 江戸で死去。享年66歳